「フォルダは開いた」やる気、あるとないの中間で停止
やる気は「ある」「ない」だけで分類できるのか、自称哲学者チェーニが自身の行動を例に再検討します。
私の名はチェーニ。哲学者、である。と、思われる。
本日もバイトを終え、なんとか帰宅した。論文を書くために机の前へ座ったが、まだ書くとは決まっていない。座ることと執筆することのあいだには、やる気の中間的状態が存在すると考えられる。
それでは、今夜も論文の執筆にとりかかる。
「やる気」と呼ばれる現象がある。行動を左右する重要な要素だとされているが、その実体については案外よくわかっていない。多くの場合、やる気は「ある」か「ない」かで語られるが、はたしてそれが適切な理解なのかどうか、本稿では改めて検討してみたい。
まず前提として、やる気とは、あるときには存在し、別のときには存在しない、きわめて不安定なものだ。一定量が常にあるわけではなく、状況や時間の経過によって増減する。また、外部から直接観測することが難しく、本人にしか把握できない。この主観性が、やる気の定義を曖昧にしている原因の一つだと考えられる。
また、やる気の有無を「ある・なし」で二分することが本当に妥当なのかも疑わしい。もし明確にどちらかに分類できるなら、判定は簡単なはずだ。しかし実際には、どちらとも言いがたい状況が頻繁に生じる。このことは、やる気に中間的な状態が存在する可能性を示している。
具体的な例で確認していく。
先日、私は論文執筆フォルダを開いた。しかし何もせずに閉じた。このとき、フォルダを開くという行動は発生しているが、執筆という目的には至っていない。やる気はあったのか。フォルダを開いた以上、何らかの意志は存在したと思われる。しかしその後すぐに閉じている以上、それが「やる気」と呼べるものだったかは不明だ。この状態を「やる気があった」と記録するのは、少し盛りすぎではないかと感じている。
次に、バンゲリングベイの攻略を調べるためブラウザを起動したところ、気づいたら、ゲーム攻略とは明らかに異なる成人向けコンテンツを閲覧していた、という現象についても検討する。行動は継続しており、画面も見ている。しかし当初の目的とは完全に乖離している。この場合、やる気は起動時には存在したが途中で別の何かに置き換わったと解釈できる。あるいは、最初からやる気ではなく「なんとなく手を動かしたかっただけ」だった可能性もある。判別は難しい。
さらに、排泄をしようと思い立ち、椅子から立ち上がったが、何をしようとしたのかを忘れてそのまま座り直した、という現象も同様だ。やる気は一瞬存在したが維持されなかったのか、それとも最初から存在していなかったのか、どちらとも言えない。なお、わたしの排泄失敗の件についてはここでは触れないでおこう。
加えて、「三国志を読破しよう」と強く決意した瞬間に、なぜか一定の達成感が生じて実際には読まなかった、という現象についても確認する。やる気は発生したが、発生したことで用が済んでしまっている。これはやる気が行動とは独立して機能しうることを示しているかもしれない。あるいはやる気の誤作動かもしれない。
ただし、以上の議論には限界もある。やる気の定義が曖昧である以上、中間状態の存在を論じること自体が成立しているかどうかも怪しい。また、観察される行動がやる気に起因するのか別の何かに起因するのかを厳密に区別することも難しい。これらは今後の課題とする。
以上をまとめると、、やる気は「ある」と「ない」に明確に分類できるものではなく、中間的な状態が存在すると考えてよい。したがって、やる気はあるともないとも言えるし、そのどちらでもない状態もやる気の一形態として扱うことが妥当だといえる。
本研究はやる気の中間状態を整理したが、やる気そのものを増やす方法については何一つ触れていない。
……つまるところ、
知らんがな!!
……で、ある。
おっと、もうこんな時間だったか。
すでに睡眠時間は、僅かしか確保できない。と、推測される。
これは厳しい。
明日のバイトへ行くやる気があるかどうかについては、現時点では判定が難しい。行く準備をする可能性はあるが、それをやる気と呼んでよいかは別問題である。
とりあえず、起床後に、判断することにする。