「何もしてないのにすみません」謝罪、使いすぎで価値下落
多用される「すみません」は誠意を希薄化させるのか、自称哲学者チェーニが謝罪のインフレーションを考察します。
本日もバイトを終え、なんとか帰宅した。
帰り道で誰かとすれ違うたびに、特に悪いことをしていないにもかかわらず「すみません」と言いそうになった。
これは礼儀なのか、謝罪なのか、もはや判別が難しい。
それでは、今夜も論文の執筆にとりかかる。
本来は謝罪あるいは恐縮の意を示す表現だが、現在においては呼びかけ・感謝・依頼・あいさつ・場つなぎ・軽い驚き、その他あらゆる局面において広く使用されている。
この多用の結果として、謝罪本来の機能が劣化しているのではないか。
本稿では、謝罪表現の過剰な流通が誠意の価値を下げる現象、すなわち「謝罪のインフレーション」について考えてみたい。
謝罪とは、自分が他者に対して損害または不快を与えたと認識し、その責任を言語的に表明することで、関係の修復を図る行為だとされている。
ここで重要なのは「責任の自覚」と「修復の意図」という二つの要素だ。
この二つを伴う場合にはじめて謝罪として機能し、それ以外の場面で謝罪に似た語を発しても、厳密には謝罪ではないはずである。
おそらく。
しかし「すみません」という語は、現実においてこの定義からかなり自由に運用されている。
責任の自覚も修復の意図も伴わないまま、反射的に発せられるケースが多い。
これが頻繁に起きると、「すみません」が聞き手に届いたとき、それが本当の謝罪なのか、単なる音声的なクッション材なのかを判別することが難しくなる。
これを本稿では「謝罪のインフレーション」と定義する。
🖋️具体的な例で確認していく
相手も同様に「すみません」と言った。
二人の間には何も起きていない。
誰も謝罪すべき事態を生じさせていない。
それにもかかわらず「すみません」が往復した。
この交換において誠意が存在したかどうかについては、おそらく両者とも判定不能だったと思われる。
なお私は帰宅後しばらくこの件について考えてしまったが、それはまた別の話だ。
受け取る立場において本来は「ありがとうございます」と言うべき場面だったが、私は「すみません」と言った。
この「すみません」は感謝を意味していたが、感謝の言葉ではない。
謝罪でもない。
用途不明の語が適切な場面で適切でない言葉として使われた形になる。
受け取った側の研究員は「どうも」と応じたが、「どうも」もまた何を意味するのか定かではない語であることに、後から気づいた。
それ自体は状況として理解できる。
しかし即座に「すみませんすみません」と二回目の「すみません」が連鎖的に発生。
これは、まごうことなき謝罪であると断言できる。
トレーを返却しようとしているだけなのに、「ぶっころす!」といわれたら、謝るしかないだろう。
名刺を渡すことへの謝罪である。
名刺は渡すために存在するものだ。
存在理由に対して謝罪している。
これはインフレーションを通り越して、謝罪の概念そのものが溶けはじめているといえるかもしれない。
たぶん。
「すみません」の多用が誠意を希薄化させるという主張は直感的には納得感があるが、これを実証的に示すことは難しい。
また、「すみません」を多用する話者が、いざ本当の謝罪場面で別の表現を使い分けている可能性もある。
さらに、儀礼的な発話が社会の潤滑油として機能しているという立場もあり、インフレーションそのものを問題視しないアプローチも成立しうる。
これらの反論については今後の課題とする。
以上をまとめると、謝罪表現の過剰な流通は、その語が本来持つ「責任の自覚」と「修復の意図」を剥ぎ取り、空疎な音声パターンへと変化させる可能性がある。
したがって、誰かが本気で「すみません」と言っていても、聞き手はそれを廊下のすれ違いと同列に処理してしまうかもしれない。
これが謝罪のインフレーションがはらむ問題の核心だと考えられる。
おそらく。
本研究は謝罪のインフレーションという現象を整理したが、では本当に謝りたいときにどう言えばいいのかについては何一つ触れていない。
知らんがな‼️
……で、ある。
と、推測される。 これは厳しい。
明日もまた、店長や客に対して必要以上に「すみません」と言う可能性が高い。
しかも、そのうち何割が本当の謝罪であるかは不明である。
とりあえず、起床後に、謝ることにする。