「隣のほうがうまそう」自分で選んだ定食、30秒で不正解に
なぜ他人の食事は自分のものより魅力的に見えるのか、自称哲学者チェーニがその構造を考察します。
本日もバイトを終え、なんとか帰宅した。
帰り道でコンビニに寄ったところ、自分で選んだ弁当より、隣の客が手に取った弁当のほうが明らかに正解に見えた。
なお、味についてはまだ確認されていない。
それでは、今夜も論文の執筆にとりかかる。
これは多くの人が経験する現象だが、よく考えると奇妙だ。
同じ店で、同じタイミングで注文し、同じ環境で食べているにもかかわらず、隣の皿のほうが優れて見える。
本稿では、この「他者食事優位性の錯覚」とでも呼ぶべき現象について考えていく。
味・香り・見た目・温度・食感などの要素が組み合わさって、食事の総合的な価値を形成している、とされている。
これらは本来、食べた者にしか正確に評価できない。
視覚だけで得られる情報は限定的なはずだ。
したがって、他人の皿を遠くから見ただけで「あちらのほうが美味しそう」と判断するのは、情報として不十分な状態での評価ということになる。
それにもかかわらず、そのような判断が頻繁に発生している。
これは認識の問題か、欲求の問題か、あるいはその両方か。
おそらく。
🖋️具体的な例で確認していく
着席して待っていると、隣のテーブルにBランチ(チキンカツ定食)が運ばれてきた。
私はその瞬間、明確にBランチのほうが正しかったという確信を持った。
根拠は特にない。
サバの味噌煮は私が能動的に選択した品目であり、その判断が30秒で覆されている。
なお、その後に届いた自分のサバの味噌煮は特に問題のない味だった。
しかしそれはBランチへの羨望を消さなかった。
Bランチはすでに食べられており、確認不能だった。
そのときも隣のテーブルに別の定食が届き、それが魅力的に見えた。
調べたところ、それはAランチ(サバの味噌煮定食)だった。
つまり私は、前回の羨望の対象と前回の自分の選択を、入れ替えて繰り返している。
どちらを選んでも、もう一方が優れて見えるという構造になっている可能性がある。
これはAランチとBランチの問題ではなく、私の認識の問題である。
そうに違いない。
たぶん。
私は小皿に各種料理を取り分け、着席した。
すると向かいの研究員の皿が自分のものより充実して見えた。
よく観察したところ、彼の皿にあるものはすべて私の皿にもあった。
構成要素は同一だった。
それにもかかわらず、彼の盛り付けのほうが全体として豊かに見えた。
これは分量の差か、配置の問題か。
しばらく考えたが、結論は出なかった。
その間に料理は冷めた。
この場合、羨望の対象は認識された直後に到達不能となっており、選択の問題というより機会の消失として現れている。
これは本稿で扱っている現象と近接しているが、厳密には別問題であるため、詳細な検討は今後の課題としたい。
他者の食事が魅力的に見えるのは単に選択後の後悔を合理化するための認知バイアスであり、「現象」として独立させるほどのものではないという立場もありうる。
また、他者の皿が実際に優れていた可能性も、完全には否定できない。
くわえて、この現象が食事以外の場面にも一般化できるとすれば、本稿で扱う範囲を大幅に超えることになる。
それは今後の課題だ。
以上をまとめると、他者の食事が自分のものより魅力的に見える現象は、情報の非対称性と選択後の認知的不調和が複合することで生じると考えられる。
つまり、食べていないものは常に可能性として開かれており、食べたものは現実として閉じている。
その非対称が、他者の皿を優位に見せるのだ。
したがって、どの定食を選んでも「もう一方のほうがよかった」という感覚は、構造的に発生しうる。
おそらく。
本研究は他者食事優位性の錯覚の構造を整理したが、では何を注文すれば後悔しないのかについては何一つ触れていない。
知らんがな‼️
……で、ある。
と、推測される。 これは厳しい。
明日の昼食についても、私はおそらく自分で選んだ定食より、隣の誰かの皿を正解だと判断するであろう。
選択とは、後悔を発生させるための前処理なのかもしれない。
とりあえず、起床後に、注文することにする。